大和郡山旧川本家(旧遊郭建築)のグルーチップ硝子、怪しい光です。
これはぷっくりと厚手で、「結晶の隆起」も大きいので向こうの照明効果も違います
結霜ガラス【けっそうがらす】
(グルーチップグラス・Glue Chip Glass、フェザーグラス・Feather Glass)
すり硝子の上に膠【にかわ】の水溶液を塗り低温で加熱すると、収縮した膠がガラスの表面を削り取ることを利用した硝子。剥離したように削られた部分が透明に、その他が曇りガラスの状態で、結果、全体にシダのような、また鳥の羽のような模様がまるで「ランダム」にできるのだそうです。
膠:動物の皮、腱(けん)、骨、結合組織などを水で煮沸し、溶液を濃縮・冷却 ・凝固してつくった低品質のゼラチン。
結霜ガラスは、20世紀の初め、大正中期から昭和初期に多く使われています。現在の型板ガラスの前身で、後には模様の付いた雌型を硝子にプレスして模様を付けるようになり、うんとそのバリエーションが増えます。明かりを採りつつ、見えそうで見えないガラスはこうしてできあがるのですね。
これは薄手で透け具合がいいタイプ。磨りガラスを使うよりは硝子感が増します。
当時日本のガラスの厚さは、2mmと薄いのも特徴です。明治後半から硝子戸が使われるようになりますが、戦後の型板ガラス全盛期を過ぎ、今はレトロ風硝子と少ない型板ガラスの種類が残る時代となりました。古い型板硝子は割れてしまうと同じ物がありません。大事に使いたいものです。
古い硝子をあえて使うときには割れやすくなっているので気を付けて扱ってください。また今はもう生産されていない型板ガラスがたくさんありますので、捨ててしまわないように、古硝子好きのお願いです。割れないように、保管時には「硝子は立てて置く」ことも大事です。
左:グルーチップ硝子の他に乳白ガラスも使われ、透明硝子と組み合わせて紙張り障子の代わりをした例もある(昭和初期)。
右:宝塚「硝子の館」のブロック硝子
昭和の型板硝子
S39年築(奈良県) 左上から下へ:スリ硝子、布目、市松、パテ押さえ風
右上から:梨地のぼかし縞、スリ硝子、キュービック崩し、色紙散らし
総欅普請の良質な寺院本堂の正面
昭和の改修で入れられた「色紙散らし」の模様硝子の入った硝子戸
S38年築、奈良県中部にある「中廊下式住宅」に使われている型板ガラスのいろいろ。使う箇所によってうまく選別された型板ガラスたちです。
明治後期の硝子事情
いずれも明治後期に見られる典型的な「色紙割」の硝子戸。こうして「硝子障子」が用いられるようになるが、当時はガラスを切るのにも不慣れがあり、定尺の七五といって一箱75枚入りの1尺×1尺3寸4分(30cm×40.6cm)の板硝子を使ったといいます。建具意匠が硝子サイズに合わせたともいえ、同時代性のある硝子戸意匠が表れたのですね。
硝子板寸法書(西洋建築雛形M30より)
M35日本ではじめて板硝子製造販売(日本ガラス製品工業史S58より)
日露戦争(1904-1905M37-38)前には、
一般民家で硝子戸が使われることはほとんどありません。縁先は一本引きの板雨戸を使っていますので昼間の縁は吹き放しです。硝子戸が一般化すると縁内は紙張り障子のまま縁先に硝子戸が入ります(雨戸はそのまま縁先の鴨居に溝を切り、敷居に甲丸レールを付けて硝子戸を入れた例と、上記写真のように一本引きの雨戸の敷居と鴨居を利用して板雨戸の替りに硝子戸を入れた例があります)。
縁先に硝子戸が入ると一挙に縁先空間はきらきらとした空間になりました。「透明の仕切り」とは夢のような素材であったわけです。
夏目漱石の『硝子戸の中』は
大正4年(1915)発表の小説で、硝子戸で世間と仕切られた書斎で、単調な生活を送っている筆者の話です。都市部ではこの頃、硝子戸が一般家庭で当たり前になっていることがわかります。古い民家では紙張り障子と板雨戸の時代がまだまだ続きますが・・・。
硝子は「手吹き円筒法」により作られています。円筒形に空気を吹き込んでから円筒を縦に切って開くと、ほぼこの写真の色紙の大きさの板ガラスができあがります。手吹きなので大きさが限られてくるわけです。
昭和に入ると大判硝子が使われるようになりこうした「色紙割り」の硝子戸は少なくなります。表面がメラメラとランダムに波打って向こうの景色が揺らぐ風情が独特です。
明治・大正・昭和メラメラ硝子の違い
同じメラメラ硝子でも時代によって表情が違います。明治初期から後期にかけての古い板ガラスは細かく波打っていて、適度に気泡が入っています。時代が下がって昭和に近づくにつれメラメラの波が大きく緩やかになってきます。どちらも時代を映す鏡、いや硝子ですね。
戦後は縁側などで見られる大判の硝子、即ち工業製品ですが、まだ表面の揺らぎが残っています。表面が平滑になるのは、アルミサッシが使われるようになったころ(1970年代以降)からでしょう。
大正期のレトロガラス 下:膠ガラスと上:磨りガラスをうまく使い分け
建築硝子の本の紹介
ガラスの技術史 – 2005/6/25
黒川 高明 (著)
人類が初めて創りだした素材・ガラスは、天然素材では得られない透明で美しい輝きを放ち、化学的に安定であることで今日までその技術が進んできました。過去を知ると近代建築の中の宝石のひとつ硝子を知ることになるかもしれません。
建築もののはじめ考 – 1973/2/1
大阪建設業協会 (編集)
硝子以外にも建築にまつわるものの歴史が知りたいときの必携書。絶版本ですので「古書」で探してください。
ガラスの歴史 輝く物質のワンダーランドへの誘い 単行本 – 2022/1/15 田中 廣 (著)
ガラス建材(株)タナチョーの田中廣社長の著。
5 000年の歴史を持ち、古代から中世、近世から現代まで、ガラスの発展についてコンパクトに纏めたものである。
日本製の板ガラスについて
日本では1873年(M6)にはじめて「手吹き円筒法」による板ガラスの製造が試みられたがうまくいかず、引き続き板ガラスは輸入に頼りその輸入量は増加を続ける(ガラス円筒を加熱しながら何度も吹き、大型にしていくために、身体の小さな日本人ではむずかしかった)。
その後、板ガラス先進国であったベルギーの技術を導入し、1909 年には板ガラス製造を成功したが、生産量は伸びず、次にアメリカ開発の「ラバース式機械吹き円筒技術」を導入し、1913 年(T2)工場建設に着手。ところが1914年(T3)第1 次世界大戦が勃発し、板ガラス輸入が途絶しガラスの価格が暴騰したことで日本製ガラスが広まり、1918年(T7)第1 次世界大戦後も日本の板ガラスの安定供給が可能になった。(『日本の板ガラス技術の歴史-日本化学会化学遺産認定―』日本化学会フェロー 田島慶三参照)
一般的には、日露戦争(1904-1905)を境に高級な住宅から徐々に輸入硝子が使われるようになり、第一次大戦後1918年(T7)から日本製の板ガラスが普通の住宅にも広がったようです。
明治32年(1899)12月、高浜虚子のはからいで、正岡子規(1867-1902)は自室の紙張り障子を硝子障子にしたという。「当時としては硝子窓はめずらしく、高価なものであった」とある。病床から色紙割り、気泡入りの硝子窓を通してみる残している残している。日本の一般住宅に於ける硝子戸の普及の幕開けを知ることができる正岡子規の短歌である。
「朝な夕なガラスの窓によこたはる上野の森は見れど飽かぬかも」(正岡子規「ガラス窓」連作十二篇より)
ガラスの修繕・継ぎの仕方
戦前までガラスの修理でよく見かけた「鉛継ぎ」の方法です。4-5分巾のテープ状の鉛に切り込みを入れて千鳥(互い違い)に折り曲げてガラス同士をつなげます。直線で違う種類のガラスを継ぐこと、もしくは、不定形に割れたガラス同士も曲線を描きながらも繋ぐこともできます。硝子が貴重な素材だったことがわかりますね。