川本楼は大和郡山にあるT13年築の木造3階建て延べ100坪のくるわ(廓)と二階建延べ50坪の住宅の店舗兼用住宅。
楼主が手慣れた腕のいい大工を使って、洞泉寺【とうせんじ】町という特区(公認遊郭施設)で敷地を効率的に使った木造三階を建てた。同遊郭町では最大、最上級といわれるどうどうたる不振に仕上がっている。が税を凝らしたともいいがたい、品格あるが無駄な普請は一切感じられない。
今なら坪100万とすれば1.5億、17室でどういった「商売」(金儲け)をしたかは定かでない。が、当時既に賑わっていた地、時代での売上の見込める商売であったであろう。
もし当時設計者としてくるわの設計をうけたらどうしただろう。という目線で考える。
どんな商売だったか、娼妓はどこで寝起きし、食べ、身を繕い、どれぐらいのスタッフがそれを支え、経営陣がどうふるまったかはわからない。客にとってこれでいいのかという気はするが、時代が作った売買春制度のなかでうまくいっていたのであろう。
奈良盆地の北部で地盤は良くないとおもわれる。平坦地で物流のいい豊かなまちの門前町での建設。狭い露地に面して、工事しにくい面もあったであろうが、場所柄、外材も国産材もうまく入手したようである。
また奈良ならではの文化財修理の技術を目にした職方もいたかもしれず、総3階建ての楼閣を積み上げた。どれほど3階建てに手慣れていたか、二階建ても三階建てもぎ実的な違いがどれほどあったかはわからないが、母屋上棟の直前の1923年の関東大震災をどう感じて耐震に策をどう講じたのであろう。総二階より特別に柱が太いわけではないが、何本かの三層貫く通し柱が軸力を受けている。素直な長方形の3段重ね、構造上弱点になる階段吹抜を中央に持ってきて、水平構面の弱点になる小屋裏には7尺の長火打ちをつかって補強している。
また柱位置を工夫してうまく間取りを構成し、動線を処理している。客の流れ、娼妓の流れ、サービス動線、くみ取り動線もだいじであったであろう。また、当時最先端の電気・ガス・電話を備えた「娼妓付近代ホテル」といえる。
意匠に、特別な趣向・くせはなく、ただ木と土とガラスで作ったシンプルモダンな摩天楼。京都鴨川の四条大橋のたもとにあってもおかしくない品格ある建物といえる。
木の骨組みの全面に硝子戸と細格子をまとわせ、まるでカーテンウォール。不夜城の明かりがこれらから漏れる怪しさそのものが建物すべてをあらわしている。内部はその分あまり気をてらわずに素直に硬く、うまくしあげている。
客の目的にはそれで十分であったのかも知れない。
内部のほんの一部には視線を引く窓や欄間があるが、あとは目立たない仕上げをモットーとしているようである。そのかわり仕事きっちり、100年経ってなお「りん」としている。
気概としては、当時の周辺の民家とは一線を画した都会的センスで勝負して、くるわ本来の業務に専心できるような計画・意匠となっている。次代が下った赤線時代の魔界の混乱のような意匠はない。
当時の規格寸法の材料を効率よく、無駄なく使い、広い間取りの1階とその上で構造的には連動させながらも、2.3階にはうまく小部屋を配している。
こうして効率のいい構造・規模に大工の腕前を加え、さらに近代的な材料と設備を組み込んでまとめあげたうまい設計といえるのではないか。
非日常性と言えば、見上げるような垂直の格子のスクリーン、上からみると奈落のような中庭、芝居がかった大階段、そして三間とばした大広間の柱間には、誰しもクラクラすることでしょう。
いじましさ、こざかしさのないうまい設計と基本的な納りを高い品質というより手慣れた腕前でさりげなく仕上げた秀作である。
文化財的な評価は、こうした押さえた意匠性ゆえに、「景観」として評価されている点が物足りないが、狭い特区にひしめくくるわの摩天楼が全て残っていたならまさしく特別な景観であったであろうともいえる。
さて、築100年の多々もの人生の内、くるわ使いは1/3、残りは一部下宿使い・飲食店以外は住宅と空き家。そんな本来の用途を失った建物が縁あって文化財として評価を受け残ったなら、今後の余生をどうすべは託された今人の答えが待たれる。奈良県のほかの木造文化財をみてみると、世界最古の法隆寺金堂は1300歳、東大寺大仏殿が300歳、皆現役で使われているのがうらやましいのではなかろうか?
とにかく残そうと、ここ20年、地域や自治体が考え続けて今に至っている川本楼。耐震補強で大地震に倒壊しないようになり、適切に管理を続ければ、今後も建ち続けるであろうが、逆にいうと確かな用途がないままでも建ち続けなければならない運命を担ってしまったともいえる。
過去「はならあと」や今回のイベントで工芸・芸術と建物が啐啄同時*(そったくどうじ)に会話しているように見えます。特に木と土とガラスのくるわが現在の素材や感性とうまく響き合っているのは、スペイン風邪や米騒動、関東大震災にみまわれたと同じ時代観が共感できるからかもしれません。
*啐啄同時:学ぼうとする者と教え導く者の息が合って、相通じる瞬間のこと。鳥の雛ひなが卵から出ようと鳴く声と母鳥が外から殻をつつくのが同時であるという意から。
このくるわは娼妓を搾取した「負の遺産」でありながら建築は別の次元で大和郡山の富とセンスを現わしていますので、過去の歴史を忘れないままに、建築のよさがいきるプラスの使い方をしてマイナスの妖気・霊気を少しでも鎮めてほしいもの。
活用に際しては、シンプルな構成なので、元の姿に返すことができる手の加え方で、時代に応じた活用ができるのではと思われる。そもそも木のフレーム以外は壁や建具の付け外しで部屋割りも自由なのが日本建築のいいところだから。
耐震に関しては、この見事に積載荷重の少ない、いわば「娼妓と客と布団」しかない建物です。劣化は進むので、適切に維持管理しながら、負荷をかけない使い方、例えば飲食系やホテルが考えられるのでは(人以外の荷重を避ける)。
勿論活用に際して現在の建築基準法上は不適合な部分も多いので、それを新しい技術や人的フォローで補うことで新しい用途につなげる知恵が必要になる。知恵の出し甲斐のある建物として、もっとこの建物のことを識って、考えていただければと思いながら、楼を後にした梅後、桃花、もうじき桜の一日これにて。