京都市伏見区に多数、板軒の町家がありました。板軒の宝庫です。2024.6.26
二重腕木で概ね明治期と思われます。最上段は登録文化財千歳家住宅(明治2年築)の大型商家。
登録文化財「古梅園」の板軒は美しい(奈良市の製墨業の店舗で大正初期築。平入つし2階の伝統的な構え。正面は庇及び上屋ともせがい造りとする。格子は多用せず開放的。外壁を黒漆喰塗とし重厚)
知人から高山の板軒について教わりました。で思い出して昔の写真を出してきました。
そう「木どころ飛騨高山」にみる「板庇」はまさしく「板軒」が近畿圏で散見されるルーツかもしれません。現在でも板庇を多くみることのできる高山、再訪決意です。
つまり、近世以降、瓦葺きが普及する前、板葺き時代の「板軒(のルーツ板庇)にこだわる遺伝子(ステイタス)」が、瓦時代である明治~昭和まで大工(や施主)に残った、というストーリでしょうか?地域によって板軒のあるなしは、遺伝子の「残存←→劣化の深浅」にかかわるだけで、どこにでも同じルーツ(元は皆板庇)はあったのでしょうね。
方言の残存はドーナツ化し、古風なものがより地方に色濃く残るといいますが、京都大津奈良での板軒の残存率が多いのは、財力が関係するのかもしれません。またこれらの地方では、さらに葺き材から見上げる化粧材になってもっと洗練(いい材料)にと、拍車をかけたのかもしれませんね。170809
大和の町家を文化財登録する際の所見作成のおりに、ぶつかった問題のひとつ、今回は「板軒」について考えます。今のところ板軒のルーツは定かでなく、寺社建築の古いものに何例かあるのですが、地域性や時代性も確たる検証が見あたらず、登録所見のなかでの表現に困っているところです。
皆様の地域であるかどうか、とヒアリングを続けています。もし、うちのあたりでは多いよ、とか情報いただけたらうれしいです。
ちなみに、京都では江戸~大正、昭和初期に至るまで板軒を多く見かけます。ダントツの量といえます。大津の町家も多くが板軒で、京大工のルーツが滋賀だともいわれています。
奈良県高取町にある「夢想館」は京都風の町家で大正初期に呉服屋として建てられたそうです。軒に一文字瓦を使い、下屋の深い軒を出桁で受け、板軒となっています。バッタリ床几や出格子、オダレ、ベンガラ塗りと京都の遺伝子をここ大和南部で花咲かせています。きっと当時はモダンな京風意匠だったことでしょう。呉服屋にぴったりな店舗デザインともいえます。
板軒とは、軒裏をのぞいたときに「垂木」がない場合、それが板軒。実際は「化粧野地板流し打ち」などというとその状態が目に浮かぶでしょうか?
先日うかがった大津での部材を確認すると厚さ18㎜ほどの案外薄いヒノキ材で野地板の域を出るものではありませんでしたが、やや新しいもののようでした。
奈良県橿原市の事例ですとその流し打ちの木鼻の小口小口をみせていて、その厚みは3cm以上、まな板か足場板といったボリューム感で30cm内外の板巾で、反りのない桧の板目を使っています。軒鼻に一文字瓦が並び裏甲をちらみせしながら、整然と厚い軒板の木口をずらっと並べるその心意気!(今のところそれこそが京町家大工のみせたかったことではと思っております。異論・反論ぜひお教えください)
板軒を使った古社寺の例
永保寺観音堂(多治見市・室町前期・国宝【えいほうじ】)
南北朝期の建立。桁行三間、梁間三間、一重もこし付、入母屋造、檜皮葺。方三間の主屋に裳階をつけ、檜皮葺入母屋造の屋根をあげた中形禅宗仏殿。組物は柱上だけに出組をあげた禅宗様の簡略形。前面を吹放して外観に深い陰影をあたえているところを見上げるとシンプルな板軒とする。主屋上部は一面に鏡天井を張り、裳階では海老虹梁をみせるが、前面吹放しではこれを略し、手挟で飾っている。これらの簡略化による意匠は日本化の表れとして重視されるというから「板軒」にもここにひとつの意図がうかがわれるがどうだろうか。十輪院本堂(奈良市・鎌倉時代の住宅風仏堂・国宝)
桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、本瓦葺。前面一間通りは床張りで開放、四方には浅い縁。建物の立ちが低く、正面は広縁の奥に蔀戸を設け、住宅風。板軒とする点も一般の仏堂建築と異なる特色という。
国宝寺院奈良十輪院本堂(鎌倉前期13世紀)の板軒図
日本木造遺産 千年の時を超える知恵
– 2024/6/8
藤森 照信 (著), 藤塚 光政 (写真)
ビジュアルと文化と木構造で綴る日本の木造建築の世界。十輪院はまだ訪れていないのは残念。
奈良市ならまちにはたくさん(少なくとも20軒以上)ありますが、大和郡山ではほとんど見かけない(郡山城下南部で一軒発見)が、八木で十軒、桜井で一軒、高取で一軒、以上板軒にはオダレ付きが主流、重伝建宇陀松山では数軒の板軒町家があるがこちらはオダレなしである、という具合に現在確認しています。
桜井本町の板軒町家(左:一文字瓦でオダレ付き、右:オダレなし)
大津の板軒町家(オダレがなく、出の浅い軒先に広木舞のような横材が入る場合が多い)
大津町家の板軒では軒切りのせいかどうかいまのところ不明ながら桁から先は足場板のような鼻隠しというか広小舞というか横材が使われています。同じ大津で軒先まで流し打ちしたものもあるので、道路拡幅時に行われた「軒仕舞いの変更」(打ち流し部分を切り詰め、幅広の横材を鼻隠しをかねて取り付けた)をその後の新築でも見習ってしまったせいかもしれません。
ちなみに大津の町家にはオダレがありません(一部霧除け板のある町家もありました)が、大津祭りのときなどの用いる幕掛けの受け木や提灯を持ち出す金物に工夫がありました。また大津の町家にはバッタリ床几もあまりみかけません。昭和初期の軒切りのためにその伝統的なファサードが改変されましたが、どこかにオリジナルな意匠や部材が残り、どこかに新しい意匠が使われているようです。
古建築のなぜは時としてちょっとしたはずみで、あるいは「本歌取り」(模倣)を歌いながら間違った模倣をしていたり、またその間違いも時代を経て結果的に「地域の特有の意匠」になっていることがあります。理詰めでは答えの見つからない事象があることがまた謎解きの旅を楽しくしてくれます。いずれにせよ大津の町家はワンダーランド、必見ですよ!
伝建地区兵庫県篠山河原町の京風町家の板軒のほか、この界隈に3軒の板軒がありました。
大阪みなみ、大国町にあるうだつのある町家にも板軒(板目)が使われていました。大阪で珍しい原型のよくのこっている町家です。栂と思われる緻密な柾目の通った良質の材料を使った商家です。
大阪中央区の商家も見てきました。この界隈にわずかに残っている町家商家は見事にほぼすべて板軒でした。ただ軒先に木口を見せているのは、適塾のみ、これは大正区からの移築です。
もしかしてこれがルーツのひとつかもと思われる京町家に出会いました。京都祇園祭りの後の祭りでのことです。
古い建物なのか、建て替えでこうなったのかはわかりませんが、月鉾会所の下屋軒が板で葺かれていました。しかも瓦葺きではなく、「板庇」の要領でまな板状の厚板を「互い違い」に板を流して雨水を受けるようになっています(カラー鉄板で覆われています)。
京都祇園祭の月鉾会所(四条烏丸西)
調査続行中です。どうぞ皆様のお知恵もお貸し下さい。
梅雨時の板軒 ツバメの巣でにぎわっています。
町家再生の技と知恵―京町家のしくみと改修のてびき
– 2002/5/30 京町家作事組 (著)
京町家を、残して住み続けるには、 多くの場合、改修が必要である。本書では、原状の調査の仕方から、 その施工に役立つポイント、改修の実例まで図や写真でわかりやす く伝授する。また、その構造を知るために、新築当時の町家の建設 を工程を追って解説し、躯体構造を絵解きで理解できるようにした。