「かまど」で窮す、困った!
登録文化財調査の現場で板張り台所に上半分露出させて竈が並んでいます。どうやって使ったんだろう、薪はどこにあって、どこから水を汲んできたんだろう・・・。
かつて奈良は吉野、おばあちゃんの家には土間にかまどがありました。庭先の井戸水、五右衛門風呂、ぽっとん便所もあった時代です。
かまどは母にとっては仕事の場。幼い時から飯炊きは末っ子だった母の仕事でした。下火を整え、薪をくべ、火加減をして立派にごはんをたき、湯をきらさず、汁をつくるのが仕事だったそうです。
私が初めて火を扱ったのは、旧街道脇にできた新宅の薪焚きの風呂の焚口。新聞紙で下火を付け、薪を入れ、火吹きの筒を口に、ときにいぶされながら風呂の湯を沸かしたものです、すぐにガスに替わりましたが・・・。
民家では竈は土間にあるのが当たり前で、いっぽう寺院の勝手場である台所では竈の周囲は板間のようなのです。(近世以降こうなったとか)
かつて京都の大寺院の実測をした際、勝手場よりまた下手を担当していた若き私の古社寺調査経験では、案外「庫裏の勝手場」に入ることがなかったことに気が付きました。住宅を設計して、台所を作らないようなもので、寺院建築の中でも人の糊口しのぐべく大事な勝手場を見落としていたことにびっくりしました。
寺院庫裏の勝手場はその中心は通常男性(尼寺あるのはもちろんですが、接する機会惜しくもなく)、そこで例えば「精進料理」は極まったわけですからその機能性は卓越したものがあったはず、が、寺のお坊様が料理する場を見たことがありませんでした。
というわけで、件の「板張りかまど場」の使い勝手がどうもわかりません。
そこで見つけた本「かまど」(ものと人間の文化史) です。
かまどとは上に鍋、釜などをかけ、下から火を燃やして物を煮炊きするもの。中をうつろにし上に穴をあける、とある。もちろん焚口がある。火の神、女性の象徴、死との境界線「異界の入口」ともされる。竈の金文の解釈は煙突に水虫(アオガエルとか)を置いた形。かまどの「かま」は韓国語の釜をさし外来語で、「へっつい」「くど」が日本の古来語。へは戸や器物の「へ」を表すし、「くど」は「ほど」(火処)の意。
竪穴式住居時代に室内で炉を持ち、中世には今念頭に浮かべる一つ穴の竈は完成、この間韓竈【からかま】という移動式の竈が大陸から祭祀用にもたらされ、影響をうけたとの説、炉の周辺に三つの石を五徳とし鍋を置くが、やがて火袋を覆う竈に発展するという説もある。
絵巻によると、土饅頭型のかまどは当初(15Cの絵巻)祭祀用で、次に風呂の湯を沸かす用、長く炊事には五徳を使っていたところ、ようやく炊事用の竈があらわれる。またかまど場は屋外から屋内に入ってくる。庶民の暮らしの中では、置き竈が実用性でまさり、江戸時代盛んに使われる。
連結式のかまどの発達は、当初祭祀用と炊事用の大小二個口から始まり、三つ五つ七つと家族が増えると増えていく(江戸では七輪を使うので竈口は少ない)。口数が増えると一列型や弓型となって並んでいく。京都の町家では通常竈口は通り土間で座敷を背にするのに対し、江戸では逆だそうだ。通り庭上部は「火袋」といわれ、煙が座敷にはいらないで上部に逃げる役割をする。煙突がまだなかったからだ。
竈は大地に設置して土間に築く。人はその前で腰を下ろして作業する。大正時代になって台所の近代化でようやく竈に煙突がつき、台所環境が好転する。「改良竈」(煙突、台付き)出現である。人が立ってにち「火の前に立つ」ようになって急速に呪術性が遠のく。
さて、「板張り竈場」のルーツはまだ不明。寺院庫裏の竈も古くは外部で、部屋内に入ってきてからもやはり土間に築かれていたのであろうが、近世以降床揚げされ竈を囲むようになったようである。調理の仕方、配膳の仕方、もしくは政所としての庫裏の使い方・権威がその理由かもしれない。調査続行である。
かまど (ものと人間の文化史)
2004/1/1 狩野 敏次 (著)
日常の煮炊きの道具であるとともに祭りと信仰に重要な位置を占めてきたカマドをめぐる忘れられた伝承を掘り起こし,民俗空間の壮大なコスモロジーを浮彫にする。
高岡瑞龍寺大庫裏のかまど